2026年9月18日(土)第242回北研例会

はじめに 9月例会の二つの柱

 9月の北研例会では、大きく二つの内容が扱われた。第一は、北原先生が関東甲信越英語教育学会(KATE)に参加し、東京外国語大学の工藤先生、埼玉大学の及川先生らの講演・発表を聞く中で抱いた疑問を北研の参加者に投げかけ、音読、黙読時の音声化、和訳、そして「目的・場面・状況」といった現在の英語教育の中心的な論点を参加者全員で考えたことである。第二は、北原先生が新潟市での研修会に向け、小・中・高の教員から事前に寄せられた約40の悩みや疑問に5日間かけて回答を作成し、その回答を北研会員が読みながら、「自分ならどう答えるか」「自分の授業ではどうか」と考え、さらに議論を深めたことである。

 複数のレポートを通して見えてきたのは、例会が単なる「北原先生の答えを聞く会」にはなっていなかったということである。北原先生の問いや回答を起点に、会員それぞれが自分の学習歴、現在の授業、生徒の姿、学校文化、学級づくり、ICTや個別最適な学びといった現代的課題と結び付け、ときに賛同し、ときに疑問を残しながら、自分なりの言葉で捉え直している。以下、その内容を二つの柱に沿って整理する。

Ⅰ KATEでの講演・発表をめぐって

1 「黙読するときに音声化のスイッチを切る」ことは可能なのか

 工藤先生の講演では、黙読時の音声化、すなわち英文を読む際に頭の中で文字を音へと変換する働きが話題になった。北原先生が強く疑問をもったのは、「黙読するときに音声化のスイッチをオフにできない」という趣旨の説明である。北原先生自身、イギリス留学前後の学習経験の中で、読む速度を上げるために頭の中での音声化を止めようと試したことがあったという。しかし、文字そのものは目で追えても、内容が十分に頭に入ってこなかった。その経験から、リーディング時の音声化を完全に切り離すことが本当に可能なのか、という問題提起がなされた。

 この問いに対して、複数の会員が「自分も日本語を読むときでさえ、ある程度は頭の中で音声化している」と振り返っている。英文を目だけで追い、音をまったく介在させずに意味を取る感覚そのものが想像しにくいという意見である。ある会員は、テスト中の生徒にも「心の中で読んでみて、聞いたことのない音になっていたら何かがおかしいかもしれない」と伝えており、文字と音声の結び付きが英文の正確な処理を支えるという実感を示している。

 一方で、別の会員は「音声化を完全になくすか、すべての語を同じ強さで音声化するか」という二択ではないのではないかと考察した。意味の中心となる内容語はある程度意識しつつ、冠詞、前置詞、助動詞などの機能語は、熟達するにつれてほとんど意識せず自動的に処理できるようになる。そうすれば、音声を完全に消さなくても、意味理解を保ったまま処理速度を上げられるのではないかという仮説である。英語の歌を聞く際、内容語が比較的はっきり聞こえる一方で、機能語は弱く発音され、意識に上りにくいこととも関連付けている。

 この議論から、北研内では「音声化する/しない」という単純な二分法よりも、文字・音・意味がどの程度自動的につながっているか、どの部分を意識的に処理し、どの部分を自動化できているかという視点が重要ではないか、という方向へ考察が広がっていった。

2 なぜ高校でも音読が行われているのか

 北原先生は参加者に「自分が高校生のとき、授業で音読をしていたか」と問いかけた。多くの参加者の記憶では、高校の授業では音読をほとんどしていなかった、あるいは定期試験前や短い本文で行う程度だった。一方、現在の高校現場では、音読やリピート、シャドーイング等を積極的に取り入れる授業も珍しくない。そこで「なぜ、以前はそれほど行われていなかった高校で、現在は音読が広がっているのか」が議論になった。

 北原先生の基本的な捉えでは、音読は中学1・2年生で特に重要である。日本では日常生活の中で自然に英語音声が大量に入ってくる環境がないため、自分の声を使って英語を繰り返し入力し、文字・音声・意味を結び付け、「頭の中に英語の世界」「英語の回路」をつくる必要がある。しかし中学3年生では、1・2年生のように「50回読む」と回数を指定して一律に音読させることは原則として行わず、必要に応じて生徒自身が音読を選ぶ状態へ移していくという。

 また、教材の性質も重要である。高校の教科書には一文が長く、構造が複雑で、内容の展開を追いながら考えることが求められる文章も多い。そのような英文を全文、何十回も暗唱できるまで読むことが本当に妥当なのかという疑問が示された。現在の中学校教科書も、以前より本文量や語彙の負荷が増しているため、すべてを同じ密度で反復することは現実的ではない。したがって「音読させるかどうか」ではなく、「どの教材の、どの部分を、何のために音読させるのか」を見極める必要がある。

3 北研会員が考えた「高校で音読が必要になる理由」

 この問いに対して最も多く見られたのが、「中学校段階で文字・音声・意味の結び付きが十分につくられていない生徒が多いため、高校で改めてその基礎をつくり直しているのではないか」という考察である。ある会員は、卒業生から「高校でもかなり音読をする」と聞いた経験を紹介した。中学校で繰り返し音読していた生徒にとっては高校での音読も苦にならない一方、他校出身の生徒には負担が大きいという話があったという。また、英語を苦手としていた卒業生でも、教科書音読についてはきちんとできていたという事例から、中学校で身に付けた音声面の基礎が高校での学習を支えていることを実感したと振り返っている。

 別の会員は、2021年度以降の教科書の語彙量増加や小学校英語の前倒しにより、もともとあった学力差がさらに拡大したという実感を記している。以前であれば成績下位の中学生でも教科書本文をある程度音声化できたのに、現在は中学1年生の初歩的な本文であっても途中で読めなくなる生徒がいる。学校によっては、デジタル教材やプリント作業が中心となり、生徒が実際に英語を声に出す時間が極端に少ない場合もある。その結果、高校側が「中学校で十分につかなかった力」を補うために音読を取り入れている可能性がある、という指摘である。

 この点をさらに整理した会員は、音読の必要性を「年齢」ではなく「到達度」で考えるべきだと述べている。カタカナの読み仮名に頼らず英文を読める、英文を見た瞬間に適切な英語音が立ち上がる、日本語に訳さず意味を取れる、一語ずつではなくチャンク単位で処理できる――こうした状態まで到達していれば、同じ英文を何十回も読む必要性は低くなる。逆に、高校生や大人であっても、その状態に達していないのであれば音読には意味がある。高校では全文反復ではなく、重要表現や文構造を含む部分に絞って音読するなど、目的に応じた選択が現実的ではないかという考察である。

 また、音読は単なる発音練習ではないという点も繰り返し述べられている。ある会員は、ジェスチャーリーディングを「英語→日本語訳→意味」ではなく、「英語→意味・イメージ・身体感覚」という経路をつくる活動と捉えた。つまり、文字・音声・意味の直結を促し、日本語を介さずに英語を理解するための土台づくりとして音読を捉えている。別の会員は、発音指導を伴わない機械的な音読では、英語の回路づくりやリスニング・スピーキングへの転移が十分に起こらないのではないかと指摘した。

4 「音読はintakeにすぎない」―その先に何を置くか

 例会の中で印象的だった言葉として、北原先生の「音読はintakeにしかすぎない」という発言を挙げた会員もいた。音読は重要だが、それ自体が英語学習の最終目的ではない。音読によって取り込んだ表現が、最終的に生徒自身のSpeakingやWritingに結び付いてこそ意味をもつ。この会員は、音読後にどのような活動をつなげれば、生徒が取り込んだ英語を「自分の言葉」として使えるようになるのかを、自分の授業でも考えたいと記している。

 この視点は、今回の音読論議全体をまとめる鍵でもある。「音読をたくさんやらせること」が目的化すると、回数や量の議論に終始する。しかし、北研会員の考察は、音読を文字・音声・意味の結合、自動化、内容理解、表現の定着、そしてアウトプットへの橋渡しと捉え直し、学習者がどの状態になれば音読の役割が変化するのかまで考えようとしている。

5 及川先生の発表をきっかけに考えた「和訳」と文法指導

 同じKATEでは、及川先生による「不定詞の名詞的用法の導入に want to ~ は適切か」という趣旨の発表も話題となった。例えば want to を「~することを欲する」と処理すれば、日本語として不自然である。しかし、その不自然さを説明する過程自体が、結局は「英語表現を日本語訳へ置き換える」ことを前提としてはいないか。北原先生はそこに「やはり和訳から離れられていないのではないか」という問題を感じた。

 ある会員は、文法用語や日本語訳を先に与え、「これは~することという意味」と機械的に当てはめる指導が、かえって生徒の自然な理解を妨げる可能性を指摘した。want to のようなまとまりは、実際の使用場面や意味の塊として理解させた方が、生徒の中に自然な英語の処理をつくりやすいのではないかという考察である。

 さらに、別の会員は「内容理解=和訳なのか」という根本的な問いを記している。英文の意味が分かっていることと、それを日本語の文に置き換えられることは同義ではない。ここでも、「英語→日本語→意味」という経路を当然視するのではなく、英語から直接意味を取るための授業設計が必要になる。音読をめぐる議論と和訳をめぐる議論は別々に見えるが、実際にはどちらも「英語を英語のまま処理できる回路をどう育てるか」という一点でつながっている。

6 「目的・場面・状況」と “Be authentic.”

 工藤先生の講演資料からは、「目的・場面・状況」についても考察が広がった。ある会員は、研修等でこの言葉を何度も聞いてきたものの、北原メソッドの “Be authentic.” と結び付けることで理解しやすくなったと記している。別の会員も、必然性のある言語活動をつくるという意味で、「目的・場面・状況」は決して難解な概念ではなく、北原メソッドで大切にされてきた真正性の考え方に近いと捉えている。

 ただし、単に授業者が「今日は〇〇という場面です」と設定すれば、それだけで生徒の発信内容が変わるわけではない。例えば、「新しいALTに自己紹介する」と「海外の英語教師との交流会で自己紹介する」では、場面は変わっても、実際の発話内容がそれほど変わらない可能性もある。講演資料でも、目的・場面・状況を意識することと、それに応じた内容を書くこととの間に単純な関連が見られない事例が示されたという。

 そのため会員からは、「教師が場面を設定したこと」よりも、「生徒自身が、なぜ伝えるのか、誰に伝えるのかを実感できていること」が重要だという考察が出された。目的・場面・状況を形式的なラベルにせず、相手意識やリアルさを伴う活動として成立させることが必要である。この点でも、活動の名称や形式ではなく、その活動が生徒にとって本当に意味のあるコミュニケーションになっているかが問われている。

Ⅱ 新潟研修会「40の悩み・疑問」を北研でどう考えたか

1 40の問いを「自分ならどう答えるか」で読む

 第二の柱は、新潟市での研修会に参加する小・中・高の教員から寄せられた約40の悩みや疑問である。北原先生はこれらに対し、5日間かけて回答を作成した。例会では、参加者が各問いについて「自分なら答えられる」「感覚は分かるが言語化しにくい」「分からない」などと自己評価しながら読み進めた。事前にAIによる分析・回答例も示されたが、分類としては整っていても、現場経験に根ざした具体性や人間味に乏しいという印象をもった会員が多かった。

 一方、北原先生の回答は、これまでの授業実践、生徒とのやり取り、学級づくりの経験に裏打ちされた具体的なものであり、北研会員もその回答を受けて自分の実践例や疑問を重ねていった。当日はALTも3名参加しており、質問や北原先生の回答を英語で伝えながら議論する場面もあった。ある会員は、その緊張感自体が大きな学びであり、研鑽する教師集団の中で自分に負荷をかけることの重要性を改めて感じたと振り返っている。

2 ペア・グループ活動に参加しない生徒――方法より先に「なぜ」を考える

 繰り返し取り上げられたのが、「ペアやグループ活動をしようとしない児童生徒がいる」という悩みである。北原先生の回答は、まず「なぜやらないのか」を考えることだった。つまらないのか、恥ずかしいのか、相手との関係がよくないのか、教師との関係に原因があるのか。そして、こうした児童生徒こそ教師にとってはチャンスであり、授業外で本人と話してみることが大切だという。

 この回答に対して、複数の会員が学級の人間関係や安心感の重要性を挙げた。ある会員のクラスでは、普段は冷めた様子でペア活動を嫌々行う生徒でも、ペアが変わると活動することがある。その姿から、活動内容そのものだけでなく、人間関係や学級の雰囲気が参加を左右していると感じたという。

 別の会員は、近年は「やりたくない」と意思表示する生徒だけでなく、「怖くてできない」生徒への配慮がより必要になっていると書いている。何も言えずに黙り込む、泣いてしまう、翌日になって保護者から活動を避けたいという連絡が来る――そのような場合、単なる好き嫌いではなく、本人の特性、友人関係、学級経営まで含めて考える必要がある。つまり、ペア活動のテクニック以前に、教師と生徒の信頼関係、安心して間違えられる環境、安心して教え合える環境を日常的につくることが土台になる。

 さらに、ペアの組み方についても、隣、前後、斜め、スネークフォーメーション、固定バディなどさまざまな方法が実践されているが、どの方法が絶対に正しいとは言い切れないという意見があった。クラスの人間関係は固定的ではなく、その時々で変わる。したがって、技法を選ぶこと以上に、生徒の状態を見取り、必要に応じて組み合わせを変えられる教師の柔軟性が重要になる。

3 高学年の外国語をどう楽しくするか――アクションカードと「間違えたくない」心理

 小学校高学年を初めて担当する教員からは、「子どもがたくさん話し、楽しく学習する授業にしたいが、アイデアが浮かばない」という悩みが寄せられた。高学年になるほど「間違えたくない」「きちんと話したい」という意識が強くなり、単元の初めにまだ十分分からない状態で話すことを苦痛に感じる児童もいるという。

 北原先生は、小学校6年生はある意味で中学1年生より「大人」であり、最高学年としての自意識もあるため、間違いを避けたい心理が強くなることに理解を示した。その上で、中学校につながる活動として北原メソッドのアクションカードを取り入れてはどうかと提案した。実際に小学校で英語を担当している会員からも、自分の授業で試したいという声が上がった。

 また、授業アイデアが尽きるという悩みについて、ある会員は北原メソッドのAパターン・Bパターンのように、授業の基本構造をある程度固定することの意味を改めて捉え直している。毎時間まったく新しいアクティビティを発明し続けるのではなく、文法導入・練習の日、本文を扱う日など、授業の流れを型として持ち、その中でスパイラルな復習や音読を位置付ければ、教師の負担を抑えつつ継続的な学習をつくることができる。

4 小学校の「書くこと」はどこまで求めるか

 「どの児童も『書く学習』を楽しめるようにするにはどうすればよいか」という問いに対し、北原先生は、小学校で書く活動を過度に増やす必要はなく、アルファベットを書くことや、言えるようになった短い文を書く程度で十分ではないかと答えた。

 この回答に共感した会員は、小学校段階ではまず英語の音声を十分に蓄積することが重要だと考察している。小学校で耳と口を通して英語を豊かに経験し、中学校でその音を文字へとつなげる。もし小学校の段階から正確な綴りや長い英文を書くことを過度に要求すれば、英語が『楽しいコミュニケーション』ではなく『間違えてはいけない教科』になりかねない。小中で役割を分担し、音声から文字へと滑らかにつなぐことが必要である。

5 小中接続と「英語嫌い」――中学校側が変わる必要

 「小学校と中学校で英語の学び方が大きく変わり、正しいスペル、過去形、現在進行形などを求められることで英語嫌いになる子がいる。小学校では何に気を付ければよいか」という問いも複数のレポートで取り上げられた。

 北原先生は、小学校だけに対応を求めるのではなく、中学校側の従来型の指導にも責任があるとした。細かなスペルチェック、機械的な活用練習、単語テスト、単語調べや本文写しを大量に課すノート指導などが、英語嫌いを生み出しているのではないかという問題提起である。だからこそ、小中の教師が互いの実践を知り、話し合う必要がある。

 ある会員は、現場に依然として『単語テストをやれば学力や学習習慣がつく』という強い信念が残っていると記した。しかし、その方法だけを続けることが本当に英語力につながっているのかは検討が必要であり、従来から当たり前に行ってきたことを一度問い直す必要があるという。

 別の会員は、中学1年生でフォニックス等を用い、英語の音と文字を丁寧につなぐことが決定的に重要だと考察している。中学3年生になっても多くの単語にカタカナの読み仮名を書かないと教科書を読めない生徒がいる。文字から音に変換できないままでは、毎時間の音読そのものが苦痛になり、英語嫌いを深める。したがって、中学1年生の終わりまでに、できるだけ多くの生徒がカタカナに頼らず教科書を読める状態を保障することが、小学校で育てた『英語で伝えてみたい』という気持ちを中学校で消さないためにも重要だと述べている。

6 全員では言えるのに、一人になると言えない――評価の仕方を問い直す

 スピーキングについて、「全員であれば言えるのに、いざテストで一人になると言えない児童生徒がいる。個別指導をどう充実させるか」という相談があった。北原先生は、普段の授業で言えているのであれば、まずその力を肯定的に捉えてよいのではないかと答えた。また、タブレットを使い、自分で納得するまで練習してから録画し、提出させる方法を実践している北研会員もいると紹介した。

 この回答を受け、ある会員は「一人でできないことだけを見ない」ことが大切だと考察している。普段の授業で、全員が安心して大きな声で英語を言える教室が成立していること自体に価値がある。一人になった途端に強く緊張する生徒へ、『一人でも同じようにできなければならない』と一律に求めるのではなく、録画、再提出、練習時間の保障などの足場掛けを用意し、その子が持っている力を適切に発揮できる評価方法を考えるべきだという。

7 自由進度学習・個別最適な学び――「教師が教えない」とは限らない

 「自由進度学習や個別最適な学びと協働的な学びをどう捉えるか」という問いに対し、北原先生は、自分自身には十分な実践がなく、得意な分野ではないと率直に答えている。その一方で、過去の回答例として、一律の宿題を避ける、無駄な学習をさせない、できる生徒をさらに伸ばす、といった考えも示されていた。

 ここでは会員側の実践と考察が大きく広がった。ある会員の勤務校では、授業終盤のワーク時間等で「ソロ・グループ・コーチ」の三つから学習形態を選ばせている。ソロは一人で進める、グループは少人数で協力する、コーチは教師の周囲に集まり一問ずつ確認しながら進めるという形である。導入当初は友達と話したいだけでグループを選ぶ生徒もいたが、経験を重ねると、自分の理解度や時間効率を考えて選択するようになったという。教師と一緒に考えることで途中から自力で進めるようになる生徒もおり、文法問題だけでなく本文読解にも応用している。

 別の会員は、50分すべてを自由進度にする必要はないと考える。英語では、話す・書くといった技能を身に付けるために、教師のモデル提示、反復練習、正確さのチェックなど、教師が責任をもって保障すべき部分がある。その上で、個々の課題に取り組む時間や学び方を選択する時間を設ければよい。『個別最適だから教師は教えない』ではなく、『教師が教える時間と、生徒に委ねる時間をどう組み合わせるか』が重要だという整理である。

 さらに、北原メソッドそのものにも個別最適につながる要素があるのではないかという考察もあった。既習事項をスパイラルに繰り返し、教師、ALT、クラスメイト、タブレットなど複数のリソースを使いながら、それぞれが自分の弱点に応じて定着を図るという発想は、現在の『個別最適な学び』と必ずしも対立するものではない。

8 学力の二極化とスローラーナー――協働と励まし

 学力の二極化が進み、授業の焦点を合わせにくいという悩みも挙げられた。北原先生は、こうした状況だからこそペア活動を活用すること、また現在の教科書は内容量が多いため、すべてを同じ密度で扱うのではなく、他の活動で代替できるページは思い切って軽く扱うことも必要だとした。

 会員からは、学力差が大きいほど一斉指導だけで全員に同じ課題を与えることには限界があり、生徒同士が声を出し、相手の英語を聞き、やり取りする中で学び合う仕組みが必要になるという考察が示された。ただし、ここでも『ペアを組ませればよい』のではない。安心して間違えられる教室、相手と関わっても大丈夫だと思える人間関係が前提になる。

 また、「やり取りの活動の中でスローラーナーへの支援が不足する」という悩みに対して、北原先生は、すぐに効く特効薬があるわけではないとした上で、生徒を励まし続けることの重要性を語った。「中学校英語は頭のいい悪いに関係なく誰でもできる」「日本語が話せるなら英語も話せる」という言葉を生徒に伝え続けてきたという。ある会員は、同じように教えていてもなかなか吸収できない生徒を前に、自分の指導を責めて落ち込むことがあると書いている。それでも励まし続けた結果、生徒から教師の関わりそのものへの感謝を伝えられた経験があり、『生徒も教師の人柄を見ている』という実感につながったという。

9 コミュニケーションが苦手な生徒への「もう一人の自分」という声かけ

 コミュニケーションそのものを苦手とする児童生徒への声かけとして、北原先生は「英語という授業は、もう一人の自分と出会える素敵な教科」「日本語では恥ずかしくても、英語なら言えるかもしれない。新しい自分と出会ってみよう」という趣旨の言葉を紹介した。

 当日参加していたALTからも、英語を話す自分、フランス語を話す自分、日本語を話す自分は少しずつ違う、という話があった。複数の会員がこの言葉に共感し、生徒にも伝えたいと記している。英語学習を『正しく言えるかを試される場』だけにせず、普段とは少し違う自分を試せる場として提示することは、コミュニケーションに消極的な生徒にとって心理的な入口になり得る。

10 復習を飽きさせない、できた生徒を遊ばせない

 「復習をどう授業に組み込み、飽きずに続けるか」という問いに対しては、北原先生から「最後の一人が分かるまで取り組むこと」と同時に、「先にできた児童生徒を暇にさせない工夫」が示された。終わっていないパートナーを教える、別の課題へ進むなど、理解の早い生徒にも次の役割や課題を用意する。

 ここには、全員を同じ速度で動かすのではなく、学級全体として学習を前へ進めながら個々の差にも対応するという発想がある。単に『待たせる』のでも、『先に終わった人だけ自由にする』のでもなく、できた生徒の力を学び合いに生かす。この考えは、前述の個別最適な学びやペア・グループ活動ともつながっている。

11 授業のゴール設定――「単元のゴール」を形式化しない

 「単元のゴールを教師側から示すのではなく、子どもたちがテーマや課題を設定し、意欲的に取り組むにはどうすればよいか」という問いもあった。北原先生は、そもそも英語科でいう『単元』とは何か、と問い返したという。

 ある会員は、現在の学校現場ではUnitやLessonごとに最後のゴールを設定し、そこへ向かって授業を設計することが求められる一方、毎単元必ずパフォーマンス課題を置こうとすると、とってつけたような不自然さが生じることもあると述べている。最終的にどのような力を付けたいかを教師がイメージし、生徒と共有することは重要である。しかし、『毎単元ゴール活動を入れること』自体が目的になると、本来の学習目標から離れる危険がある。

 この論点は、Ⅰで扱った『目的・場面・状況』とも重なる。授業形式としてゴールや場面を設定するだけではなく、その課題に必然性があるか、生徒にとって本当に伝えたい内容になっているかを吟味する必要がある。

12 Readingではどこまで「解説」するのか

 「Readingの解説をどこまでするべきか」という問いに対して、北原先生は、教師による解説は必要最小限でよいという立場を示した。新語、新出文法、登場人物の気持ち、文化的背景などを軽く扱う程度で、全文を教師が説明し続ける授業は、これまでの日本の英語教育の問題の一つではないかという。

 ある会員は、自身の恩師が行った授業比較の話を紹介している。部分的に和訳するクラスと全文和訳するクラスを比べても、模試の下線部和訳の結果に大きな差が見られなかったというもので、すべての文を詳しく解説することが、そのまま学力向上につながるわけではないことを示唆している。

 ここでも重要なのは、教師がどれだけ説明したかではなく、生徒が英文を自分で処理できるようになったかである。和訳を完成させることが授業の終点ではなく、音声、意味、文構造、内容を自分で結び付けられるようにするために、教師の説明をどこまで減らせるかという視点が必要になる。

13 本文の進め方と問題演習――「授業でしかできないこと」をする

 「教科書本文の進め方に困っている。本文に関する問題をどれくらいやらせるべきか」という問いに、北原先生は「問題演習を授業の中心にしたことはほとんどない。何度も復習する」と答えた。

 ある会員は、北原メソッドと出会う前は毎時間のように問題プリントを作っていたが、その後は同種の問題を大量に作ることをやめ、スピーキングやペアワーク等、授業でしかできない活動に時間を回すようになったという。別の会員も、「問題を解かせる=活動」ではないと整理している。家庭学習用ワークとほぼ同じ内容を教師が別プリントに作り直し、それを授業で解かせるのであれば、授業時間を使う意味は薄い。

 授業だからこそできるのは、本当に正しい音で読めているかを確認すること、チャンク単位で意味を取ること、音声と意味を結び付けること、学んだ表現を実際に話したり書いたりすること、仲間の英語を聞いて修正することなどである。本文も、すべてを逐語訳し大量の設問を解かせるより、重要部分を音読・ジェスチャー・やり取り等で扱い、学習した表現を何度も別の形で再利用する方が、授業の価値を高めるのではないかという考察である。

14 ALT・担任との連携――事前準備を増やしすぎない

 Team Teachingについて、「ALTとは連携できても担任との連携が取りにくい」という相談もあった。北原先生は、担任の負担を増やさないよう、事前に多くの準備をお願いすることはできるだけ避け、どうしても必要なことだけを簡潔にやり取りするという考えを示した。

 今回の例会ではALTが実際に参加し、質問や回答を英語で共有する場面があったこと自体も示唆的だった。ある会員は、参加者全員が議論に入れるよう、その場で英語に直して伝える配慮を北原先生が自然に行っていたことに注目している。どの生徒も授業に参加できるよう、必要な人へさりげなく手を差し伸べるという北原先生の授業観が、例会運営にも表れていたのではないかと捉えている。

Ⅲ 複数のレポートを通して浮かび上がった共通点

1 「何をするか」より「なぜするか」

 今回の二つのテーマに共通していたのは、ある方法を採用するか否かを表面的に決めるのではなく、その方法の目的を問い直す姿勢である。音読なら「何回読ませるか」ではなく、「何のために読むのか」「どの状態になれば大量反復を卒業できるのか」。ペア活動なら「ペアをやらせるか」ではなく、「なぜその生徒は参加できないのか」「安心して活動できる環境があるか」。個別最適な学びなら「自由に任せるか」ではなく、「教師が保障する部分と、生徒が選択する部分をどう分けるか」。問題演習なら「何問解かせるか」ではなく、「それを授業で行う意味があるか」。

 つまり、北研で共有されているのは特定の活動メニューそのものではなく、生徒の実態を見ながら、その活動が何のために存在するのかを教師が明確にし、必要に応じて形を変えるという授業観である。

2 方法論の前提としての人間関係・学級づくり

 40の悩みに対する議論では、方法論だけでは解決できない問題が何度も現れた。ペア活動に入れない生徒、スピーキングテストで一人になると言えない生徒、コミュニケーションを避ける生徒、スローラーナー。これらに対する北原先生と会員の考察をつなぐと、最終的には『その生徒をどう見るか』『普段からどのような関係をつくっているか』というところへ戻ってくる。

 安心して間違えられる、分からないと言える、助けを求められる、友達に教えられる、教師が自分を見てくれていると感じられる。そうした環境があって初めて、ペアワークもグループワークも、音読もスピーキングも機能する。北原先生の『励ましてやってください』という言葉や、『もう一人の自分と出会える』という声かけが多くの会員の印象に残ったのも、英語の技能以前に、生徒が挑戦できる心理的な場をつくることを重視しているからだと考えられる。

3 小学校・中学校・高校を一本の発達の流れとして見る

 音読をめぐる議論と小中接続の悩みを重ねると、校種ごとに分断して考える危うさも見えてくる。小学校では音声を十分に蓄積し、中学校では音と文字を結び付け、日本語を介さず意味を取れる力を育てる。その力が十分につけば、高校ではすべての文章を何十回も音読する必要はなくなり、より長い文章を読み、考え、使うことへ重点を移せる。逆に、中学校段階で音声と文字の結び付きが弱いまま進学すれば、高校で再び音読の基礎から補う必要が生じる。

 したがって、音読の必要性を『中学校だから』『高校だから』と固定的に区切るのではなく、学習者がどの段階にいるかを見ながら、小・中・高の学びを連続的に考える必要がある。この視点は、北研会員の複数のレポートに共通して見られた。

4 AI時代だからこそ、教師の実践知を言語化する

 今回の40の悩みにはAIによる回答例も用意されていた。AIは整理や分類、一般的な助言を出すことには長けているが、北研会員が強く感じたのは、実際の生徒の姿や失敗経験、学級の空気、教師の迷いといった文脈を踏まえた回答の厚みである。北原先生の回答が具体的に感じられたのは、長年の実践の中で『このとき生徒はこう動いた』『この言葉で変わった』という経験が蓄積されているからである。

 一方で、AIを授業づくりや教材作成に利用する教師が増えているという話題も出た。AIが作った問題を十分に吟味せず、未習事項を含んだままテストに使用してしまうような事例への懸念も記されている。AIの活用そのものを否定するのではなく、最終的に生徒に何を学ばせたいのか、内容が既習範囲や生徒の実態に合っているかを判断する責任は教師にある。今回の例会は、AI時代であるからこそ、教師自身が授業観や判断基準を言葉にできることの重要性も示していた。

おわりに

 9月例会は、一見すると「音読・和訳」という伝統的なテーマと、「個別最適・ICT・AI・小中接続」という現代的なテーマを別々に扱ったように見える。しかし、各会員のレポートを重ねると、その根底には一貫した問いがあった。それは、教師が慣習や流行に従って活動を選ぶのではなく、目の前の生徒にどのような力を付けたいのかを起点に、授業を組み立て直すことである。

 音読は、回数を競うためではなく、文字・音声・意味を結び付け、英語を英語のまま処理する土台をつくるために行う。和訳は、理解そのものと同一視しない。目的・場面・状況は、設定するだけでなく、生徒が本当に相手と目的を感じられるものにする。ペア活動は、形式として実施するのではなく、安心して関われる関係づくりの上に置く。個別最適な学びは、教師が手を引くことではなく、教師が保障すべき基礎と、生徒に委ねる選択を組み合わせる。Readingは、教師がすべて説明するのではなく、生徒が自分で英文を処理できるようにする。問題演習は、授業でしかできない学びを圧迫しない範囲で位置付ける。

 そして、うまく活動に入れない生徒、英語を苦手と感じる生徒、スローラーナーに対しては、方法を変えることと同じくらい、その生徒と話し、励まし、挑戦できる環境をつくることが大切である。「中学校英語は誰でもできる」「英語なら、もう一人の自分に出会える」という北原先生の言葉が多くの会員に残ったのは、英語教育を技能訓練だけではなく、生徒の自己効力感や人とのつながりを育てる営みとして捉えているからだろう。

 複数のレポートに共通していたのは、北原先生の答えをそのまま受け取って終わるのではなく、自分の授業、生徒、学校の現状に照らして『では自分ならどうするか』を考え続ける姿勢であった。9月例会の最大の収穫は、個々の方法論を学んだことだけではなく、教師自身が『なぜその指導をするのか』を問い続けることの大切さを、参加者それぞれが改めて確認したことにあったと言える。